九十九の章

呼吸の度に、身の内が白く染まるような心地がする。
ひたひたと四肢を顔を髪を濡らす、闇のような霧。
まだものを見ることに慣れていない目に映るのは、ただ一面の白。
裸足の足を踏み出す。普通の人間ならば痛むだろう、尖った石の擦れる音。
また一歩踏み出す。視界は晴れず、自らがどこに向かうのか、彼にはまだわからない。
「……、」
小さな吐息、それとも微かな譫言が、耳朶に当たる。
前も後ろも、右も左も見えない。次の一歩で千尋の谷底に落ちてもなんの不思議もない。
けれども足を止める気はない。ただひたすらに、前に進む。
――そうしなければ、背に負ったちいさな命は、おそらく消える。

別に、こいつを生かす必要などないのだ、と、今さらの思考が脳裏をよぎる。
血縁というわけでもない。なんの恩があるわけでもない。
むしろ、こいつには迷惑をかけられている、といってもいい。
ただ偶然に出会い、わけもわからず気に入られ、まとわりつかれて。

背中が少し軽くなったような気がして、足を早める。
全身を濡らす霧は、おそらく冷たいのだろう。彼にはまだ、それはわからないけれど。
ただ、背に感じる気配は、冷たさと相反するものだと、知っている。

どれほど邪険に扱おうと、どれほど危険にさらされようと、まとわりついてきたちいさな足音。
恐れげもなく伸ばされる手、屈託ない笑顔。

「……死ぬなよ、」

一言呟き、また霧を割く。
いつしか、足元から聞こえる音は変わっていた。
硬く平らな、整えられた石を踏む音。
霧にしっとりと濡れた滑らかな踏み石の表面に、ぺたりと裸足の痕がつく。指紋のない、つるりと丸い指の形。
平らな石をたどると、古びた門に行き着いた。朽ちかけた門扉は、片手で押せばゆらりと開く。
どうやら、零落した武家の屋敷か――と、見当をつけた。
ならば本来は案内を乞い、一夜の宿と連れの手当てを頼むべきだろう。
だが、門にも、そこから覗ける庭にも、人影はない。

門から入ると、霧は嘘のように失せた。背後を振り返ると、朽ちていたはずの門扉はいつのまにか閉じ、外の様子は窺えない。
……よくあることだ。こんな旅をしていれば。
背に負うちいさな体を一度揺すりあげ、庭を歩く。
古びてはいるが、明らかに誰かが手を入れている庭園だ。木は刈り込まれ、雑草は抜かれている。奥に見える池の端には花も見える。
けれども、この庭はすでに死にかかっている。草影に虫の鳴く声はなく、木々の梢にも鳥の影はない。
ゆるやかに、ゆるやかに、停滞に向かいつつある空間。
淀む空気は、先程までの霧よりも重く感じた。


設えられた飛石を辿った先は、予想した通り、古びた屋敷だった。
予想と違っていたのは、その大きさだ。数十人が暮らせそうな、非常に大きな母屋が奥まで続いているのがわかる。
これほどの豪邸が打ち捨てられているのは、どういうことだろうか。
――どういうことでも、構うものか。関わりはない。
この屋敷から、妖気は感じない。
むしろ、神聖な、清浄な気配に満ちている。

「頼もう」

声をあげた。
ここには誰かがいる。庭と屋敷を整える誰かが。

「連れが傷つき、霧で迷って難儀している。手当てと宿を頼みたい」

ふと、空気が変わった。誰かが、近づいた。
背負う体を片手で支え、空いた手を自分の口の前に掲げる。

するする、と。
音もなく、扉が開く。

きらりと、青銀色が光った。

「……おや。まさか、この本丸に人間が訪ねてこようとは」

開いた扉の内に立っていたのは――抜き身の刃と、そう見えた。一瞬だけ。
次の瞬間に、目が知覚したのは、眩いまでの美しさ。

「……ここまで来たとは、えにしがあるのでしょう。……お入りなさい」

長いまっすぐな青銀色の髪は、研ぎ澄まされた刃のごとく。
白い顔は畏怖を覚えるほどに整い、温度のない奇妙な色の瞳が彼らを映す。
袈裟を着ている、ということは、僧か。だがとてもそのようには見えない。
ありえない色彩、ありえない美麗、ありえない気配。

その男は、人に非ず。
それだけは、彼にも――百鬼丸にも、はっきりと、わかった。