傷(逆裁/ミツナル/ダーク/超自然)

『ぼくのかぞく なるほどうりゅういち

ぼくにはおとうさんもおかあさんもいません。ぼくのかぞくはみつるぎです。
みつるぎはぼくがあかちゃんのときからずっといっしょです。きみがうまれるまえからいっしょなのだよ、ってみつるぎはいいます。でもぼくは、あかちゃんのときよりまえのことはおぼえてません。
みつるぎはいつもやさしいけど、おこるととてもこわいです。
すごくあたまがいいのに、りょうりとかおりがみがへたです。
みつるぎとぼくは、まいにちいっしょにおふろにはいります。せなかをあらってあげるとみつるぎはよろこんでくれるので、ぼくもうれしくなります。いっしょにおゆにつかって、はなすのはたのしいです。みつるぎはがっこうのことをたくさんききます』


「……」
子供は机に突っ伏して、小さな寝息を立てている。
御剣は少し迷ってから、読み終えた書きかけの作文用紙を机に戻し、眉間に皺を寄せて、そっと逆立った黒髪を撫でた。
「……少しくらいは漢字を使いたまえ」





あれから。
もう七年が経った。



七年前、御剣怜侍と、その「親友」である成歩堂龍一は、特殊な関係にあった。
通常であれば、同年齢で同性の幼なじみの間には成立しないはずの関係。
恋愛感情は、存在した。少なくとも御剣の側には。
だがその関係が、正当な──双方の合意に基づくものであったとは、口が裂けても言えない。
御剣への報恩のために、あらゆる常識を覆し、自ら奇跡を起こしたこともある親友は、劣情を含んだ感情と行為を黙って受け入れ、御剣は卑劣と知りつつそれにつけこんだ。

成歩堂が何を考えていたのか、御剣は今も知らない。
彼は伸ばされた手を決して拒まず、だが望みもしなかった。
苦鳴か、それとも快楽かを噛み殺す唇から拒絶が漏れるのが怖くて、あえてそれを開かせようとはしなかった。
褥を離れれば、彼はいつも誠実な親友で、共に真実を暴き出す好敵手で、そして。


時代錯誤な、怪しげな宗教団体のことを、最初に耳にしたのはいつのことか。
使えない刑事が机に積み上げた書類の中か、なにげなく目を留めた新聞記事か、雑踏で漏れ聞こえた噂話か。
それとも、成歩堂の口から聞いたのだったか。
いずれにしても、実力派弁護士としてすでに名を高めていた彼が引き受けた一件の依頼が、その団体と彼との間に関わりを作ってしまったのは間違いない。

なるほどくんが帰ってこないの。
泣きながらそう訴えた、彼の助手の声を覚えている。
持てる力のすべてを尽くして探し──数日の後、踏み込んだそこには、とても現実とは思えない光景があった。

明かりを落とした部屋の中を照らすのは、数知れぬ燭台。
床に描かれた、円を基調とする精緻な図形。
焚きしめられた香と、淫らがましい音楽。
現実主義を標榜する御剣にすら、この光景が何を意味するかはすぐにわかった。
報告書に書き込まれていた非現実的な単語と、通俗的なイメージが脳裏をよぎる。
──黒い魔術。

古くは紀元前のエジプトやギリシャに遡り、暗黒の中世を彩ったその技術を、御剣はただの迷信としか思ってはいなかった。
否、今でも時々思う。
あれは夢だったのではないか、幼い日から幾度となく繰り返した殺人の夢と同じ、実体のない悪夢だったのではないかと。
だが何度眠り、何度目覚めても──傍らに、彼はいない。
自分と変わらぬ体躯を持ち、明るく屈託なく笑って、こう言ってくれるはずの男は。
(……夢は夢だよ。現実じゃない……)


誰よりも早く、独りで突入した奥の一室。
ドアの外で、狂信者たちが取り押さえられている騒々しい声と、破壊音がしていたはずだ。
だがそんなことは、なにも覚えていない。
覚えているのは──横たえられた、人間の体。


よく知っている男の体は、見たこともないほど白かった。
全裸のままの胸に切り開かれた、大きな裂け目からは、いまだ溢れ出す真紅の液体。


悲鳴を上げただろうか、彼の名を叫んだだろうか、声すら出なかったのかもしれない。
慣れた検事の目には、その肉体にすでに生命が宿っていないことは明白で──だが、人間でしかない御剣怜侍の魂は、それを認めはしなかった。
まだ、もしかしたらまだ、間に合うかもしれない。
切り裂かれた身体の横に置かれた、赤黒い肉の塊など見ないふりをして、床に描かれた円環に躊躇いなく踏み込んだ。──否、そんなものに注意を払う余裕などなかった。
あの魂を内包していた肉体のもとに馳せより、かき抱こうと、手を伸ばす。
現場の保存など思考の片隅にすらなく、身体を動かすのはただ恐怖と絶望。
白墨で引かれた紋様を踏みにじり、血まみれの身体を抱き寄せる、顔を覗き込もうとする、声の限りに名を叫ぶ。


その手の触れるよりも僅かに早く。

心臓を失ったはずの、愛しい肉体は。

見下ろす視界の中で、不意に目を見開き。

笑った。



「……るぎ?」
毛布をそっと肩にかけてやると、その振動で子供は目を覚ました。
「眠るなら、ちゃんとベッドで眠りたまえ。風邪を引く」
咎めるというよりは気遣う言葉に、子供は眠たげに目を擦りながら首を振る。
「……まだねない……」
「そうか」
その手は小さく、皮膚は薄く、骨は細い。
「しゅくだいやって、そしたらみつるぎとおふろにはいる」
「……そうか」
ふにゃりと笑う小さな顔が、記憶の中のそれと重なるのには、……あと何年かかるだろうか。



望みを叶えよう、と、言われた。
正統なる儀式、正しく屠られた生贄の代償を求めよ、と。
豊潤なる財宝か?天下の美姫か?並ぶ者なき武勇か?森羅万象を悟る知恵か?世界を掌中にする権力か?
──求めよ、貴様にはその権利がある。
見慣れた顔が、何度も口づけた唇が、その主のものではあり得ない言葉を紡ぐのを呆然と聞いた。

望みだと?望みなど、ただ一つしかあり得ない。
──……返してくれ。彼を、成歩堂を返してくれ!


「みつるぎー。しゅくだい、おわった!」
「そうか。……なら、風呂に入ろうか?」
「うん!」


──異なことを。我に捧げられし贄を、返せと言うか?
──望みを叶える、と、言ったはずだ。私にはそれ以外の望みなどない!
──……ならば、贄の代わりとなるものを差し出すか?
──何でも、持っていけ。私の命でも、魂とやらでもかまわない。
──ハ!貴様の魂など貰っても仕方がない。……いいだろう、ならば貴様から、二つの代償を受け取ろう。


「……ねえ、みつるぎ」
「なんだ」
「みつるぎのむねのとこ、おっきいきずあるよね」
「……ああ」
「いたい……?」
「……いいや。もう痛くはない」


──アダム言けるは、此こそわが骨の骨わが肉の肉なれ。……貴様の半身を取り戻そうと望むのならば、まずは貴様の身の一部を貰おうか。そしてもうひとつ……
──……そのような安い値でいいのか?
──くっくっく。……安いか、高いかは、これからゆっくり考えるが良かろうよ。……貴様にはこれから、考えるための時間は充分あるのだからな……永遠に。



七年、経った。
赤ん坊を抱いて見知らぬ街に住みつき、過去のすべてを捨てて暮らし始めてから。

赤ん坊は幼子になり、子供になった。
やがて少年となり、青年となり、そして老いてゆくだろう。
だが御剣は、変わらない。永遠に。
変化と死は、あの悪魔にくれてやってしまった。
……一本の肋骨とともに。


『みつるぎのむねには、おおきいきずあとがあります。
なんでけがしたのか、きいてもおしえてくれません。
でもときどき、そこをおさえていたそうなかおをしています。
なめたらいたいのなおる?ときいたら、いたくなんかない、っていいます。
ぼくはいつか、みつるぎのきずをなおしてあげたいとおもいます。』